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平成最後の話

フォローしているタイムラインでは、なんだか皆こぞって「平成最後の」を多用している。平成最後の梅雨、平成最後の夏…これから訪れるあらゆる季節とイベントにこの枕詞がつくのだろう。まだタイムラインで見かけてないよ、という人も大丈夫、これからありとあらゆるマスメディアがこれでもかというほど教えてくれる。きっと夏頃までは楽しくて年甲斐もなく浮かれてそうだが、おそらく秋口でしつこさがピークになり、クリスマスを迎える頃にはもはや何も思わなくなり、達観した顔で平成最後の年越しを迎えてしまいそうだ。

 

有史以来、ざっくり言えば国全体にとって良いことや悪いことが起きた時、日本人は元号を改めて気分を一新してきた。ご存知の通り、明治維新後は天皇崩御に伴って行われている。しかしこの風習も秒読みで過去形になる。だからきっと、改元の1年も前から今の元号のラストを楽しむこの現象は、地球上に日本が誕生して以来初めて起きるイベントではないだろうか。改元の持つ不謹慎さが一掃されて、嫌味のない「ハレ」感だけが残り、一般市民が思い思いの「平成最後」に浸ってる。

 

ではなぜ、みな「平成最後の」と言いたがるのだろうか。少し考えてみたのだが、それはおそらく「次の元号が発表されてないから」だと思う。文字にすると当たり前の事のようだが、続ける。

 

人間は五感を使って対象を認知する。目で見たり、手で触ったりすることで対象物の存在を認識する。この味、その音、あの山…人間にとっては、まず五感で感じられるものが認知の対象だ。一方、体で感じられないもの、たとえば目に見えないものや、概念的なものについては、名前をつけることで認知できるようになる。昔の人たちは工夫し、言葉を言葉巧みに操って、概念的な物事を理解することができた。命名するということは誕生するということと同義だ。

 

換言すると、人は「名前の付いていない概念」を上手に想像することが出来ない。「次の元号」そのもの(漢字二文字のやつ)を想像してああだこうだと考えを巡らすことは出来ても、「次の元号が付与された世の中」を思うことは難しいのではないか。少なくとも万人が同じイメージを共有することは困難だ。元号とは時代のメタファーであり、名付けられて初めて時代が生まれる。手元のカレンダーをめくれば2019年はすぐそこだが、平成の次の元号は「まだこの世の中にない」ので、僕らの脳内にもない。だから仕方なしに、僕らは想像の範囲内にあるこの平成の余韻を、このように堪能しているのではないだろうか。

 

そして宮内庁が新元号をギリギリまで公表せずに一部業界から苦言を呈されているのも、裏を返せば「平成を最後まで楽しんでね(超意訳)」という人間心理を読み倒した策略かもしれず、さすが世界で最も長く続いている王家の身辺護衛部隊にとっては国家と臣民を手玉にとることなど朝飯前なのだな、と無駄に感心してしまう。

 

動機と外的要因をごっちゃにし、実態のない「世間」を行動の指針にしてしまう僕らにとって、日本国最初の「平成最後」を楽しむことこそ、国民の象徴のお気持ちであり、それは国民の気持ちそのものなのかもしれない。もう逃げることは出来ない。何も考えず受け入れてしまう方がいい。これは平成最後の祭りなのだ。