SHOMONA

サッカー/ギター/歴史/和食/iPad/飲酒

音楽の時間

 

 

書いてたら長くなったのでブログで紹介する。

ちなみにこれから挙げるのはどれも、いわば「たくてぃーに 入門編」みたいな人選・選曲なので、ここ1〜2年で仲良くなった読者向けに、自己紹介するつもりで書いた。一方ベテランのフォロワーは、ぜひ次に来る曲を予想しながら読んでくれるとおれが楽しい。

 

 

1 イライラした時聴きたい曲

 


◇君の瞳に恋してない/UNISON SQUARE GARDEN

イライラしてしまったとき、そこにはいらつきの根源的原因に立ち向かうか、それとも逃避するかという選択だけでなく、イライラしている自分の感情に向き合うか、それとも目をそらすかという選択をも迫られている。この判断がなかなか難しい。人は安易な選択肢を選びがちだからだ。

そこへいくとUNISON SQUARE GARDENの歌は、イライラだけでなく喜怒哀楽の全てを受け止め、しっかり消化している。特にここ最近のアルバムの最初と最後の曲を聴いてほしい。何か大きなものに立ち向かったとき、逃げずに自分らしさを出していくぞと宣言している。その中でもひときわポップで、MWも可愛いこの曲をどうぞ。

 

UNISON SQUARE GARDEN「君の瞳に恋してない」 - YouTube

 


2 好きな曲

 


◇ベッドサイドミュージック/フレンズ

バンドが結成するきっかけの曲。この曲のおかげで大好きなフレンズがいると思うと愛さない訳にはいかない。

 


3 オススメしたい曲

 


◇例えばヒロ、お前がそうだったように/竹原ピストル

この曲のもつエネルギーを感じるのに無用な言葉はいらない。全部竹原ピストルが言ってくれるから。とにかく聴いてほしい。

 

例えばヒロ、お前がそうだったように 竹原ピストル - YouTube

 


4 楽しくなる曲

 


Rising Hope/LiSA

ジムで走る。個人的には、楽しくない作業だ。出来ればラクしたい。そんな時の楽しいお供。田淵が書きLiSAが歌う曲だけ集めたプレイリストを繰り返し流す事で脳を麻痺させる。ジェットロケットを聴きながら走ってると山の神になった気分にもなる。ちなみにバンドでやっててもめちゃくちゃ楽しい。

 

 

5 元気になる曲

 


◇会いたくて/西野カナ

もしあなたが落ち込んだり元気がないときは、カラオケでこの曲を思いきり熱唱してほしい。テンポをDAMなら+3~4、JOYなら最速に設定して、あとは一番声量が出やすいキーに合わせたら、腹の底から歌うといい。これほど元気の出る曲はない。※個人の感想です

 


6 恋してる時聴きたい曲

 


◇ただいま、おかえり/The Mirraz

自分にとって、恋とは生活だ。少しでも長く一緒にいたい相手とすべきは、生活に他ならない。恋をしたら聴こう、一緒に生活をする妄想をしよう。

 

 

7 朝に聴きたい曲

 


◇Kiss You Back/Nulbarich

朝は落ち着いていたい。無音でもいい。強いて挙げるならこの透き通った青空のような曲。ライブに行けば分かるが、絶対に友達にはなれなさそうな見た目をしてるからこそ、彼のパーソナリティにはあんまり興味がなくて、だからこそ純粋な曲そのものを評価できるし、いつまでも純度の高いBGMであり続けてくれる。朝は良い音楽を聴こう。

 


8 冬に聴きたい曲

 


外は白い雪の夜吉田拓郎

フォークソング史に燦然と煌めく、最高峰の昭和失恋ソング。心を包む優しい楽器の音色と、三拍子の拍に無理やり歌詞を詰め込んだ独特の緊張感、そして男女の駆け引き。寒い冬に聴けば一層、情景が思い浮かぶ。会社のカラオケで吉田拓郎を歌うと偉い人ににウケるのもいい。世界で一番どうでもいい話をすると、おれの十八番が「洛陽」なのは歌詞に一瞬だけ仙台が出てくるから。


外は白い雪の夜|吉田拓郎 - YouTube

 


9 最近はまってる曲

 


◇Easy Go/エレファントカシマシ

今年一番はまった曲。とにかく格好良すぎる。誰しも歳をとると落ち着いたり丸くなったりミディアムテンポな曲で満足したりするところ、彼らは違う。思うに昨今のフェス文化も意識した、アップテンポなロックチューン。歌詞の説得力もすごい。泣きそうになる。ふざけんな。電車で泣かすな。

 


10 カラオケで高得点出る曲

 


◇ハルジオン/BUMP OF CHICKEN

いつどこで歌ったのか、何点を取ったのか、もはや全く覚えてないけど「あっ今人生で最高の点出た」って喜んだことだけ鮮明に覚えてるハルジオン。昔のBUMPはキーが低いから、カラオケで喉を馴らすのにちょうどいい。メロディーフラッグとかアルエとか、BUMPを数曲歌ってから、本当に歌いたい曲を歌うルーチンがある。カラオケ行きたくなってきた。行きましょう。懐かしのカラオケ館池袋サンシャイン通り店で待ってます。

医療保険と縄文時代

「ほけんの窓口に通いつめていたら、いつの間にか縄文時代にハマっていた」
という趣旨のツイートをしたところ、意味わかんねえよふざけんなとお叱りを頂いたので、ちょっと真面目に書く。論理の飛躍が前提だ。君はついてこれるか。


そもそも、保険というものほどあくどい不安商法は無い。「これまで通り生きられませんよ?」「死んだら家族が困りますよね?」なんて言われて、不安にならない人の方がおかしい。本当に人々の不安に寄り添うなら、掛け金と保険金のトータルはニアイコールになるはずなのに、保険会社はきょうびなお成長し続けている。必要以上に煽って、必要以上に回収しているに違いない。素人にそう思われても仕方ない。保険関係の仕事している人ごめんね。

それでもまあ、やむを得ず、ベストではないけれどベターな落としどころとして、人々は医療保険や生命保険に入る。5年後、10年後、50年後、あるいは明日の自分を想像して、「この金額で健康を買ったと思えば安い」などと言い聞かせながら、保険に入る。おれも今年中には決めねばなと思っている。みなそんなもんだと思う。


そうやって保険商品を選ぶとき、もっとも試される己の能力は"想像力"だと実感した。未来に生きる将来の自分が、一体どこで何をしているのか、想像を巡らせた。東京?日本?それとも知らない国?家族は?子供は?老後は?まじでひとつもわかんねえ。俺の未来、いまだに可能性有りすぎる。総理大臣かもしれない。

でもまあいくら真面目に考えても想像の及ばない理由のひとつが、一般人の頭では社会そのものの変容を捉えきれないからだと思う。
俺と同じように、社会も生きている。社会規範、社会常識、通俗的なものは、ゆっくりとしかし時々刻々と変わっている。働きかた改革にせよLGBTにせよ、いま世論を賑わせている事柄ひとつとっても、昭和の常識が○○(次の元号が入る)の非常識となるのは火を見るよりも明らかだ。世の中は変革に溢れている。ツイッターだってここ5年くらいで全然変わったし。

じゃあすべてが変わるのか?この世の中の常識のすべてが変わってしまうのか?否、すくなくとも平成生まれの人生スパンで、死ぬまでに今の身の回りの全てが変わってしまうということは考えにくい。たとえ万が一、ここが中華人民共和国の属国になったとしても、日本人は日本人であり続けようとするはずだ。有名な慣性の法則である。


ではその日本人を日本人たらしめている社会通念とは、いったい何だろう。昭和の常識か、江戸発祥の文化か、あるいは平安貴族に端を発するのか。ここからが本題なのだが、俺はこの日本人らしさは、縄文時代にすでに形成されていたんじゃないかと睨んでいる。

現在確実に分かっていることとして、日本列島には5万年前から人が住んでいて、縄文時代は1.6万年前から始まった。つまり日本人は、1.6万年前から土器を作っている。これは世界の中でもすげえ古い。古すぎてびっくりするけど、これはマジ、マジかどうかは上野の国立博物館で縄文展がやっている(今週末まで!)ので、自分の目で確かめてほしい。

 

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自分の目で確かめに、俺も行ってきた。本当に衝撃的だった。縄文土器の迫力がすごかった。子供が入れるほどサイズが大きいのに、ディテールにものすごくこだわっている。文様のバリエーションも豊富だ。「部分的にあえてシンプルにすることで、一番目立たせたい装飾個所を一層引き立たせる」みたいなデザインの足し引きが、しっかり計算されているように感じた。文様そのもののデザイン性の秀逸さだけでなく、それを作るに至った技術の蓄積、社会の文化的背景にまで思いを馳せずにはいられない。マジですごい。何もないところからいきなりこんなものが生まれるはずがない。(テレビの誕生と共にエヴァンゲリオンが放送されるだろうか?)数千年、数万年の蓄積の上で生まれた土器を、さらに数千年後の人間が見ても感銘を受ける。その文化の根底にある何かが、過去と今と未来を連綿とつなぐカギなのではないか。そのカギがなんであるかは未だ分からない。分からないからこそ知りたいし、知れば少しは未来が分かる気がする。そんな思いで縄文時代にハマった。

ちなみにいま生活しているこの国で、言葉や地名は縄文時代からずっと続いてたりする。稲作を受け入れなかったアイヌや漁師の世界に、今でもそれが生きているっぽくて、最近そんな本ばかり読んでいる。また何かわかったらここに書く。もういっか。うるさいか。

 

長々と書いたが、縄文文化から平成まで、背骨が1本通ってるとしたら、その地続きに未来があるはずなので、それが分かれば、保険を考える上で必要な「未来」も、多少は見通せるだろうね、ということが言いたかった。

 

 

という訳ではなく、本当は何が言いたいかっていうと、入れ墨は縄文文化にとって"常識"だったから、りゅうちぇるには引き続き日本文化の継承にご尽力を賜りたい。

エルレガーデンのライブが最高だった話

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一言でまとめるとタイトルの通り。それ以上言葉はいらないんだけど、語りたがりだからもう少し、蛇足を承知で書く。うるせえここはチラシの裏だ、好きに書くぞ。

 

ELLEGARDENとの出会いは、仙台の小さなライブハウスだった。といっても、本人たちを見たわけではなくて、よくあるコピーバンド

高校の先輩が演奏するスターフィッシュがあまりにも格好良くて、どうしてあんなに格好良かったのか分からないけど、とにかく当時のバンドのメンバーに着うたを取って送ってもらって(当時はパケットが使い放題ではなく自力で入手出来なかった、懐かしい…)、それから高校を卒業するまでずっとこの曲を着信音と朝のアラームにしていた。「こんな星の夜は」という歌詞で目覚めてた。朝と夜のミスマッチがすごい。

ただ当時は日本語歌詞絶対主義みたいなものが自分の中にあって、英語で歌われても意味ワカランからちゃんと日本語の歌詞で歌えというまるで戦時中みたいな思想統制が敷かれていた。それゆえ全曲全アルバム隅々まで聴くというようなことはしていなかった。若さゆえの了見の狭さだった。もったいないがそれもまた青春…

 

それでも対バンする学生バンドの連中は相変わらずELLEGARDENが大好きだったし、おかげで好きな曲もいくつか出来た。とは言えそんな中でも高校時代の思い出の楽曲といえば間違いなくスターフィッシュだった。

 

そういうわけで、今回の10年ぶりの復活ライブに臨む自分のモチベーションは、兎にも角にもスターフィッシュが聴きたいというものが第一だった。他にも好きな曲はあるし「センセーショナルな復活を遂げた伝説バンドを見てみたい」というミーハーな理由もゼロではないが、とにかくこのアンセムを歌ってくれたらと願ってた。

 

ところが、だ。

思ってたのと違うことが起きた。

大好きな曲、知ってる曲、知らない曲、全部が最高だった。アテが外れた。このバンド、こんなに良かったんだ。スターフィッシュも風の日もサンタクロースも、いやそれだけじゃない。どの曲も目の前で歌われるとこんなに最高だったんだ、となった。日本語とか英語とか関係ない。何もかもが幸せになった。

 

 

最後に笑うのは正直な奴だけだ
出し抜いて 立ち回って
手に入れたものはみんな
すぐに消えた

 

特に「金星」を歌い終えた時のMCが印象的だった。ELLEGARDENが歌い続けてきたシンプルで力強いメッセージを、解散から今日までの10年間の人生経験をもって「答え合わせ」しているような気がした。誰より細美武士自身そう感じていると話していた。僕らだってそうだ。あの頃の僕らが意味なんてよく噛み締めずに車の中で、カラオケボックスで、または小さなライブハウスのステージで歌ってきた言葉たちは、結果的に正しかった。極端に言えば、その歌詞に盲信した自分の人生そのものを肯定されいるような気さえした。こんなに素敵な詩人が他にいるだろうか?幸せな瞬間だった。

 

僕らが幸せだったことに加え、メンバーの一人ひとりも、幸せを噛み締めていることを露わにしてくれたことが、なおさら今日という日を特別なものにしてくれた。再結成して本当に良かった、再結成してくれて本当に良かった、という気持ちで一致した。次があるようなことも匂わせたし、ないかもしれない。しかし今日は今日で最高だったんだから、自然と「次もあるんでしょう?」って錯覚してしまうところがあった。本当のところはどうか分からない。分からないがこの幸せを、一人でも多くのオールドファンに味わってもらいたいし、一緒に満喫したいし、僕らと一緒にこの10年間を肯定しよう、という気持ちが溢れてしまう。

 

とにかく、幸せなライブだった。こういった人生のログインボーナスのようなイベントが、また次の10年後に起きたらいいな、なんて思うライブだった。生きることを頑張っているあなたの今後にも、ちゃんと起きますように。そうなりますように。

東京五輪まで2年を切りましたね♪

「冠婚葬祭」という四字熟語がある。

 

実はこの熟語を構成する四文字のひとつひとつが、それぞれ人生のイベントを表してるということを、恥ずかしい話だがごく最近知った。てっきり、冠婚(結婚などのめでたいこと)と葬祭(葬式などのかなしいこと)、というニュアンスだと思っていたが、違うらしい。

 

曰く、『冠』は成人式(昔でいう元服。むしろこちらが本来の意味)、『婚』は結婚、『葬』は葬式で(この二つは読んで字のごとくだ)、そして最後の『祭』は、盆や法事を指すらしい。

大人になり結婚し、死ぬというだけでは終わらずに、故人として偲ばれたり、あるいは自身が霊になってあの世から帰ってくるまでを引っくるめて、冠婚葬祭である。またひとつ賢くなってしまった。

 

さて。ついにあの東京オリンピック2020の開幕まで二年を切った。切ったのだが、おれはこの東京オリンピックという国家的イベントを、冠婚葬祭の『葬』だと思っている。これは他ならぬ日本という国の葬式だ。生前から長い時間とたくさんの人手をかけて準備をし、盛大で煌びやかに行われる人生最後にして最大のイベントだ。その証拠に"旧"国立競技場の跡地には、急ピッチで古墳の建設が進められているのが、JR中央線に乗るとよく分かると思う。

 

かかる話は別に皮肉でも嫌味でもなく、リベラルやアナーキー的な立場でもなく、本当に"なんかそんな感じがする"というだけだ。だって日本国、いまにも死にそうじゃん。ヨボヨボじゃん。死に体じゃん。

 

終戦とともに生まれ、一度目の東京オリンピックを経て成人し、バブル崩壊とともにリタイアした「日本国」は、平成という余生を気ままに過ごし、2020年には齢75歳となる。戦後生まれの平均寿命が当時50歳だったことを考えれば、よく永らえたではないか。もうこのまま成長することはないし、むしろ寿命すら見えている。

義務教育の学び舎にクーラーひとつ付ける金がなく(精神論にすり替わるとき、その問題の本質は予算の不足だ)、増加する震災や天災から自衛し切れず、労働人口は減るのに老人は増えて、次の産業は育たず、こんな環境でなおも明るい未来を求める方が狂ってる。

 

ならばいっそ、ここらでコロッと、死んだことにしてしまってはどうか。

 

オリンピックは盛大に、そして大成功して欲しい。大会としても、参加する選手としても。好きな競技には足を運びたいし、そのために東京に住んでいるといっても過言ではない。世界のいろんな国からいろんな人が来て、喜怒哀楽と少しのお金を落として帰っていく。東京オリンピック2020は平和の祭典として、最後まで無事に執り行われてほしい。

 

それはそれ、これはこれ。

 

死んだあとは時々、残されたみんなで集まったら、昭和と平成のことを思い出して、経済成長期の頃はよかったね、いやいや平成も案外楽しかったよ、なんて語らってみるのはどうだろう。あるいはそのどちらも知らない新しい世代の活躍を、陰ながら応援するのもいい。なぜならどちらも冠婚葬祭の『祭』そのものだから。

 

とにかく、日本国は死ぬ。そのくらいの覚悟を持っておかないと、こちらの心や体が死ぬ。そんな時代がすぐそこまで来ている気がして、気のせいであってほしい。

なぜサッカー選手は大袈裟に痛がるのか?

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日常生活とワールドカップを両立すべく犠牲となった睡眠時間の積み重ねが、お肌の調子に現れてもう若くないことを感じる今日この頃、皆はいかがお過ごしか。

タイムラインも連日サッカーで盛り上がったりしていて、興味がない人からすればハタ迷惑な一ヶ月間なのだが、そういう人すらも「私がサッカーを好きじゃない理由」を呟いたりしているから面白い。

 

さて、その理由の一つに「少し押されたくらいで、大袈裟に倒れる選手が嫌い」というようなことを挙げる人が少なからずいる。身の回りにもいるし、インターネットでもよく見かける。

確かにワールドカップを見ていても、押されてもいないのに倒れる選手や、少し触れただけなのに拷問中のような顔で喚く選手、ネイマールやマルセロが目につくことは否定できないし、見ていてスカッとするものではない。わざとらしい演技を見透かされ、ネット上でも「劇団員」などと揶揄される彼らは、なぜわざわざこんなことを繰り返しているのか。痛がることにどんなメリットがあるのか、考えてみる。

 

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「えっ?お前痛くても倒れないの?ドM?笑」

 

マルセロがそう言ってるわけではないが、おそらく劇団員の言い分はこうだ。

①相手選手にカードを出させて優位に立ったり、ゴールを決めて勝ちたいから。痛がるということは悪質なファールを受けたのだろうと審判が判断し、自軍に有利な判定が下される可能性があるから。

②「嘘をつく」ことの善悪に関して、プロフェッショナルたるもの勝つためには手段なんて選んでいられないし、騙される方が悪い、という共通観念があるから。また相手をイライラさせることもできるから。(そういった社会通念をブラジルでは「マリーシア」と呼ぶ)

③「痛み」という個人的な感覚を第三者が客観的に推し量ることは難しく、従って「本当は痛くなかった」ことを証明できないから。

④「ファールでもないのに、審判を欺くためにわざと倒れた」ことに対してはイエローカードの対象となるが、「必要以上に大袈裟に痛がる」ことに対して、痛さの嘘がバレたときにこれを裁くルールは存在しないから。

⑤自分も味方も疲れているし、ファールを誘ってプレーを止めて少し休憩したいから。

以上のような理由から「相手との接触があったとき、必要以上に大袈裟に痛がる」という行動をとることについて、ルール上のデメリットがない。(せいぜい相手サポーターからブーイングを受ける程度だ)

 

ところが、である。今大会から「ビデオアシスタントレフェリー」という、映像判定だけを行う審判が追加された。主審の肉眼は誤魔化せても、四方八方から撮影してる映像はどうだろうか。そもそも、テレビで見ていて「痛がりすぎ」と思うくらいなのだから、プロの審判がビデオを見たらどう思うだろうか。鬼に金棒、審判に映像である。

 

2018年の時点では、ワールドカップや一部の国内リーグなどの主要な大会でのみ採用されている方式だが、いずれ各国のリーグ戦などに普及していくはずだ。するとどうなるか。審判の目は騙せても、映像で再確認すると「なんだ、ファールじゃないじゃん」という出来事が急増するはず。ゆくゆくは「マリーシア」を行うメリットが減り、大袈裟に痛がる選手は白い目で見られるだけになるかもしれない。

 

そう考えると、映像判定が進むほど、審判を騙したり大袈裟に痛がったりする選手は減るのではないか。朗報である。サッカーに興味がない人も、少しは理解をしてくれるかもしれない。

 

ビデオアシスタントレフェリーは審判の判断を、サッカーを、少なからず変えるはず。19世紀に生まれたフットボールは、21世紀なっても進化を続けている。いまは嫌いな人も、そのうち好きになるかもしれない。その可能性を持っているからこそ、まだまだ目を離せない。

サッカー日本代表応援ブログ

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サッカーワールドカップ日本代表の試合を翌日に控え、国中のサッカーファンと共に興奮と喜怒哀楽を分かち合おうとしている日本人がここにもまたひとり、他でもないTactini。

今月は海外出張が2回もあり、勤務日数の半分近くを中国で過ごすのだが(このブログの大半も機内で書いた)、日本代表の3試合だけは無事に東京で見られるようなスケジュールを組めたのは奇跡としか言いようがなく、サッカーの神様には大きな借りを作ってしまった。今後も細々とブロガーの真似事をして、サッカーの草の根的普及活動に勤しむことでコツコツ返していこうと思う。

ちなみにブログと言えども侮れなくて、最近では「ただのファンにしては戦術理解の完璧さがヤバすぎる」とその内容に目をつけられ、オーストラリア在住の一般人がドイツの有名チームのコーチになっちゃったりもしてる。正直とても羨ましい。こちとらどんなに最新の戦術を披露したとしても「英語がヤバすぎる」という理由で読まれもしない。

 

さてそのブログのお題をツイッターで相談したところ、「歴代日本代表のフォーメーションと戦術について書いて欲しい」とのことだったので、過去ワールドカップに出場した日本代表チームについて、自分で見聞きしてきた範囲(≒独断と偏見)で、なるべく分かりやすく簡単に書いてみようと思う。

 

 

98年 フランス大会

 

日本が初出場した大会。ジダンの全盛期。

年齢も一桁だったので、残念ながらまったく覚えておらず、唯一ぼんやり記憶にあるのは大会敗退後に骨折して帰国したゴン中山を報道するワイドショーの映像だけ。しかも、あれがサッカー選手だったと気付いたのはだいぶ後になってからだった。なのでよく分からない。

大会予選に岡田武史が監督に変わってから、チームがひとつにまとまったと聞く。本戦では良いところを見せられなかったが、初出場は岡田監督の手腕だと結果が示している。

 

《戦術と結果 まとめ》

岡田武史さまさま

 

 

02年 日韓大会

 

我が家が家族総出でサッカーにどハマりしてた時期。朝も昼休みも放課後も土日も校庭でサッカー、スタジアムでも観戦。愛読書はポケモンの攻略本とヨーロッパサッカー選手名鑑で、好きな選手はイタリアのクリスチャン・パヌッチ。ワールドカップも家族で見に行くことが出来て、グループリーグのスウェーデン対アルゼンチン(バティストゥータの代表引退試合)を観戦した。

さて日本代表についてだが、トルシエ監督率いるチームは大会初勝利と初グループリーグ突破を果たす。初戦のフォーメーションは下記の通り。

 

《大会初戦フォーメーション》

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引用元 http://www.atsushi-masuda.com/football/

(本稿では戦術の画像をこのサイトからありがたく引用させて頂いた。過去あらゆる日本代表の試合のスタメンが記録されていて、少し狂ってないとこういう収集は出来ない)

 

《概要》

トルシエは当時の日本人にとってあまり馴染みのない3バック、それも「フラットスリー」を採用して、相手のオフサイドを誘うラインコントロールを徹底した。2018年のいまになって思えば、一般的にハイラインの3バックが最も注意すべきは、ゴールキーパーとの間にある広大なスペースに飛び出してくる相手FWだと感覚的に分かるのだが、当時は「フラットスリー」という耳馴染みのないおもしろワードだけが一人歩きしていた気がする。話し合いの結果、選手たちも最後は放棄した。「名前が付いて初めて認知できる」とこの前書いたが、戦術には「なんとなくやってること、偶然うまくいったことを言語化して再現性のあるものにする」側面もあるので、そういう意味ではフラットスリーは後世の礎として犠牲になった。

 

《戦術と結果 まとめ》

外国人監督に歯向かい自分たちのサッカーを取り戻す

 

 

06年 ドイツ大会

 

《大会初戦フォーメーション》

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《概要》

理屈っぽい前監督に懲りたのか、割とニコニコしていて声が少し高いジーコを器用。戦術はいつもひとつ「選手の自主性に任せる」で、それぞれヨーロッパで活躍していた中田・稲本・小野・中村の4人は黄金の中盤と呼ばれていた。誰が守備してたんだ。

で、結果は惨敗。中盤は全く機能せず、失点を重ねてしまった。オーストラリアをライバル視するようになったのはこの大会で負けてからだと思う。格下相手には個人技が通用していた側面もあったが、同等以上になると「当たり負け」していたし、劣勢を挽回するアイデアがなかった。ムァキめがけてロングボール蹴るとかそんな感じ。今の本田圭佑、この時の中田英寿に重なる気がするんだよなあ。

 

《戦術と結果 まとめ》

選手の自由なアイデアに任せて失敗

 

 

10年 南アフリカ大会

 

《大会初戦フォーメーション》

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《概要》

ジェフ千葉をめちゃくちゃ強くしたイビチャオシム監督を引き抜いて代表監督の座に据え、オシムチルドレンが旋風を巻き起こした。前述のムァキ、エジルのお兄さんこと羽生、レスター阿部などが「考えて走るサッカー(これも今になって思えば至極当たり前のことだ)」を体現し、今度こそ日本代表は変わるかに思われた。

しかし残念なことに、オシムは病に冒され、代表監督を続けられなくなった。どうしよう。そこでこの人、困った時の岡田監督である。今思えばこの依頼時に、後々のサッカー協会の重役ポジションを保証されてたのだろう。W杯後は悠々自適に中国で監督をやったり、今治で会長をやったり、第一線を退いて好きなことをしていたように思う。羨ましい。

さてその岡田監督の戦術は、とにかく守って走る。中盤から後ろを手厚くし、両ウイングの体力と本田のキープ力に頼って攻める、言わば弱者の戦法だった。直近の日本代表監督ではもっともはっきりと「現実路線」を敷いていた。その甲斐あってか、日本は2大会ぶりの決勝トーナメント進出を果たした。

 

《戦術と結果 まとめ》

岡田監督さまさま②

 

 

14年 ブラジル大会

 

《大会初戦フォーメーション》

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《概要》

前回大会の「成功」を受け、さらに発展すべくイタリアからアルベルト・ザッケローニ監督を招へい。本田・香川・長友が全盛期を駆け抜けていたのはこのあたりで、ザックジャパンは成功を収めるかに思えた。めちゃくちゃ期待も高かった。しかし、結果は残念に終わった。ザックの持ち込んだ守備戦術こそ新鮮で、吉田や槙野はこの人のおかげでかなり成長したのだが、攻撃面がノープランだった。色々試したが結局ボールを持ちたがる選手たちの自主性に任せる他なく、結果を出すことはできなかった。

 

《戦術と結果 まとめ》

選手の自由なアイデアに任せて失敗②

 

 

18年 ロシア大会

 

大会そのものはこれから始まるので何も書けることはないが、西野監督の就任した経緯を一言でまとめるとこうなるだろう。

 

《まとめ》

外国人監督に歯向かい自分たちのサッカーを取り戻す②

 

 

さて、お分かり頂けただろうか。こんなにもはっきりと歴史が繰り返すことを。ここ20年間でサッカー日本代表は「口うるさい外国人監督の言うことなんか聞かない」「甘やかしてくれる外国人監督と心中する」「岡田武史」の3通りしか経験していない。なんということだ。しかもだ。今年3月に岡田武史S級ライセンス日本サッカー協会に返上してしまったので、伝家の宝刀「岡田武史」カードは金輪際切れない。おれたちは一体どうしたらいいんだ。教えてくれオシム!教えてくれアギーレ!絶対に負けられない戦いに負け続けてきたおれたちに明日はくるのか!頑張れニッポン!コロンビア戦は6月19日(火) 夜21時キックオフ!!

平成最後の話

フォローしているタイムラインでは、なんだか皆こぞって「平成最後の」を多用している。平成最後の梅雨、平成最後の夏…これから訪れるあらゆる季節とイベントにこの枕詞がつくのだろう。まだタイムラインで見かけてないよ、という人も大丈夫、これからありとあらゆるマスメディアがこれでもかというほど教えてくれる。きっと夏頃までは楽しくて年甲斐もなく浮かれてそうだが、おそらく秋口でしつこさがピークになり、クリスマスを迎える頃にはもはや何も思わなくなり、達観した顔で平成最後の年越しを迎えてしまいそうだ。

 

有史以来、ざっくり言えば国全体にとって良いことや悪いことが起きた時、日本人は元号を改めて気分を一新してきた。ご存知の通り、明治維新後は天皇崩御に伴って行われている。しかしこの風習も秒読みで過去形になる。だからきっと、改元の1年も前から今の元号のラストを楽しむこの現象は、地球上に日本が誕生して以来初めて起きるイベントではないだろうか。改元の持つ不謹慎さが一掃されて、嫌味のない「ハレ」感だけが残り、一般市民が思い思いの「平成最後」に浸ってる。

 

ではなぜ、みな「平成最後の」と言いたがるのだろうか。少し考えてみたのだが、それはおそらく「次の元号が発表されてないから」だと思う。文字にすると当たり前の事のようだが、続ける。

 

人間は五感を使って対象を認知する。目で見たり、手で触ったりすることで対象物の存在を認識する。この味、その音、あの山…人間にとっては、まず五感で感じられるものが認知の対象だ。一方、体で感じられないもの、たとえば目に見えないものや、概念的なものについては、名前をつけることで認知できるようになる。昔の人たちは工夫し、言葉を言葉巧みに操って、概念的な物事を理解することができた。命名するということは誕生するということと同義だ。

 

換言すると、人は「名前の付いていない概念」を上手に想像することが出来ない。「次の元号」そのもの(漢字二文字のやつ)を想像してああだこうだと考えを巡らすことは出来ても、「次の元号が付与された世の中」を思うことは難しいのではないか。少なくとも万人が同じイメージを共有することは困難だ。元号とは時代のメタファーであり、名付けられて初めて時代が生まれる。手元のカレンダーをめくれば2019年はすぐそこだが、平成の次の元号は「まだこの世の中にない」ので、僕らの脳内にもない。だから仕方なしに、僕らは想像の範囲内にあるこの平成の余韻を、このように堪能しているのではないだろうか。

 

そして宮内庁が新元号をギリギリまで公表せずに一部業界から苦言を呈されているのも、裏を返せば「平成を最後まで楽しんでね(超意訳)」という人間心理を読み倒した策略かもしれず、さすが世界で最も長く続いている王家の身辺護衛部隊にとっては国家と臣民を手玉にとることなど朝飯前なのだな、と無駄に感心してしまう。

 

動機と外的要因をごっちゃにし、実態のない「世間」を行動の指針にしてしまう僕らにとって、日本国最初の「平成最後」を楽しむことこそ、国民の象徴のお気持ちであり、それは国民の気持ちそのものなのかもしれない。もう逃げることは出来ない。何も考えず受け入れてしまう方がいい。これは平成最後の祭りなのだ。