SHOMONA

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「就職活動」をもう一度考えてみた

 

 

あ~~~~~~~~~~~~~~~〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
た〜〜くさん給料が欲しいな~~~~~〜〜〜〜〜〜〜あれっ?!

 


大変失礼。もうブログが始まってるとは気付かずに、冒頭から心の声が漏れてしまった。非常に申し訳ない。

しかし、だ。思わずこんな心の声も漏れるほど、こんなに手取りが少ないのは何故なんだろう。こんな金額で将来やっていけるのだろうか。どうしてこんなことになってしまったんだ。いったい何がいけなかったのか。と何度自問自答したところで答えは明確で、「薄給の会社に入社したから」だ。転職でもしない限り、たどり着く答えは変わらない。仕事自体は楽しいんだけど。

 

ともかく、ではなぜ薄給の会社を選んでしまったのか。他に選びようはなかったのか。あの時の俺はなぜ就職活動がうまくいかなかったのか。そんな疑問について、学生時代は全く分からなかったけど、社会人としていくらか過ごした今なら、当時と異なる目線からもう一度「就職活動」についてを、紐解けるかもしれない。似たような質問をフォロワーからもらったこのタイミングで、少し考えてみたい。

 

 

 


就活とは


未成年の頃にいくつかパスした進学試験の延長線上と捉えるのであれば、最終レースにあたる「就職試験」はその集大成ともいえる一大イベントだ。就職活動(以下、就活)に対して気負いすぎてしまうのも無理はない。なにしろ一生の給与に響く。

とはいえ、この大きすぎる敵(就活のことです)、その全貌が大きすぎるがゆえに学生からは実態が掴めず、迷える子羊たちにとって疑問や不安も多い。就活とはいったい何なのか、進学試験とどう違うのか。就活を不完全燃焼で終えて社会人となり、今ではこのイベントを反対側から眺める一個人の見解として、その本質を考えていきたい。

 

 

 

 

商品

 

まず就職試験は、高校や大学への進学試験あるいは授業における進級試験と大きく異なる。ペーパーテストか面接か、といった問題ではない。根本的に異なるのは、この試験を取り巻くカネの流れだ。

比較してみよう。例えば大学生は、大学から商品である専門知識を購入する。大学にカネを支払い、日々対価を受け取っている(しばしばその権利を惰眠で放棄しがちではあるが)。
一方で就活生は、誰かにカネを支払っているだろうか。出費といえばスーツやSPIの参考書、そして交通費の類であって、就職情報サイトに課金しているわけではない。では就職情報サイトは有志のボランティアが運営しているのか?もちろんそんなことはなくて、企業がカネを支払って自社の求人を掲載してもらっている。

 

企業はカネを払って学生を購入している。こう書くと人身売買のようだが、その通りだ。優秀な人材を毎年好きなだけ確保すべく、その斡旋会社にずいぶん大きなカネを払っている。カネを払っているからこそ、面接で偉そうな顔ができるわけだ。

スーパーマーケットの生鮮食品コーナーに並ぶ食肉を想像してほしい。肉は食べやすいサイズにカットされ、パッケージに収まり、美味しそうに見える色のLED灯で照らされている。これは食肉加工会社やスーパーが、カネを払ってくれる消費者の好みに合わせて加工している。牛や豚が自ら進んで実施しているわけではないし、鶏が陳列棚の不満を口にすることもない。

就活生も一緒だ。「注文の多い料理店」よろしく様々な約束事を押し付けられ、身だしなみに注意し、ボールペンでエントリーシートを書く。これは学生にとって「社会人のマナー」として教わりがちだが、実際は購入者のワガママだ。出入り口付近に貼りだされた「お客様の声」を忠実に反映しているに過ぎず、それが良い悪いという社会的価値観の問題ではない。

 

つまり、学生にとっての出発地点は、自身が商品であることに自覚的になることだ。

 

 

 


品定め

 

リク○ビやマ○ナビへの愚痴はまだまだ出てくるがこの辺にして、対策の話をしよう。いま本当に取り組みたい事は「自分に都合の良いルール作り」なのだが、それに参加するためにはまず、いまあるルールを守る従順さを見せることも重要だ。

 

そのためにはもう少し、企業側の考えていることをくみ取ってやらねばならない。

就活のシステムに関して、その昔は大勢の学生をごそっと採用して、そのうち一部が戦力になればよかった。(力不足にも関わらずしぶどく生き残った人たちを見たければ、窓際に行くとよい)。その後何度か訪れた「氷河期」と呼ばれる時代を経て間氷期にあたる現在、すっかり学生の数は減ってしまったので、企業は選り好みしてる場合に"なって"しまった。

 

思い出してほしい。多感な中学生の頃は、隣の席の女子から少し優しくされただけですぐ好きになってしまいがちだ。消しゴムを貸してくれたから、とかだ。一方で結婚に切羽詰まって相談所に駆け込む人間が異性に求めるのは、「少しの優しさ」だけで十分だろうか。結婚相手という即戦力を求める場合、大抵の場合で要求は細分化され、より広い市場からぴったりの人間を探すべく、時間とカネを浪費する。この現象と全く同じことが、昨今の就活市場でも言えるのではないだろうか。

そんな企業側の事情も知らずに当時の俺は、箸にも棒にも掛からぬ志望動機で真っ向から体当たりし、幾度となく無様に散っていった。すべてが中途半端だった。

 

つまり、応募した企業から祈られる要因として、学力や知力だけではなく、細かな要求事項に対して、「自分という商品説明」のプレゼンが薄過ぎる、という問題も考えられるのではないだろうか。家具や雑貨を買うとき、自分は何を求めてカネを出すだろうか。機能や見た目、色、店員のセールストーク、そしてもちろん価格。もしかしたら、客自身では気付かなかったニーズすら心の底に眠ってるかもしれない。同じ逡巡が、就活市場でも当たり前に起きている。企業は就活生を、家に持って帰るに値する商品かどうかを比較し、品定めしている。品定めしてもらうのに十分な情報を、学生は開示しなければならないのだ。

 

 

 

 

群れ

 

自分の価値をありのまま、ときには価値以上に見せることができる人間は、比較的苦労せず就職できるだろうし、あるいは苦労に対して見返りが大きい(入社後については問わない)。
そんなこと言われたってねえ、と思うだろう。付け焼刃で身に着くなら誰も困らないし、たとえ全員にこの能力が備わったとしても、戦いのステージがもう1ランク上がるだけだ。無用な殺生はやめよう。得意ではないフィールドにいて、人と違う特別な価値を発揮できないときには、みんなと同じになりすます方がいい。

 

シマウマはサバンナで、イワシは海の中で、それぞれ弱者である。弱者であるがゆえに、群れることが生存戦略だ。何十から何万という数が一か所に集まることで、強者の目を欺く。
社会人になって数年目の昨冬、幕張メッセで就活生の群れを見た。おそらく何千人といた。就職後は地方に赴任していたため、就活生の群れと出会うのはこれが初めてだった。彼ら・彼女らはみな同じような黒いスーツに身を包み、同じような髪形で、同じような鞄を携帯していた。これはシマウマやイワシと同じ、弱者の群れである。"個"であることを際立たせない。

 

あるいは、大型ドラッグストアに並ぶ、壁一面に陳列された日用品。色とりどりの歯ブラシがこれでもかと並んでいるが、俺は自分がどういう基準で歯ブラシを選んでいるのかよくわかっていない。あんなにたくさん置いてあるのに、いや置いてあるがゆえに、「よくわかんないから前とおんなじやつ」を探してしまうのだ。

 

同じ戦法を、弱い就活生は採用するべきだ。イワシと歯ブラシはそれぞれ「選ばれないため」「選ばれるため」に群れをつくっているが、本質は一緒だ。ごく少数の抜きんでている奴は、否が応でも目立つ。もし目立つやつと自分が二人で並んだら、絶対に目立つやつが選ばれるに決まっている。だからそんなやつとタイマンを張る必要はなくて、そんなやつにはせいぜいスイミーの目にでもなってもらえばいい。残りの俺らみたいな連中はとにかく大勢集まって、みなと同じようにふるまって、少しでも採用確率を高めるしかない。当時の俺はといえば中途半端な色で群れの周辺を漂っていたから、側から見ればさしずめ大きな魚のフンだったのだろう。

 

 

 

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群れをつくる個性のない就活生のイメージ

 

 

 

 

まとめ


世の中には必要悪が多すぎる。全体でみれば最適解だからといって、ミクロでみれば負担でしかないことを平気で押し付けてくるが、それでしか回らない社会構造も後押しし、必要悪として世にはびこっている。就活もそんなシステムだ。本当はもっとじっくりと時間をかけて、学生が企業を選ぶべきだ。でもそんなことでは経団連以下たくさんの企業が困ってしまうから、今の仕組みが継続されている。学生が商品という立場から、この仕組みを変えることは難しい。いち社会人にだって無理だ。


従ってこの大きすぎる敵と戦うためには、まず自身が商品であることを自覚し、客である企業からどう品定めされているのかを理解し、就活生の群れの中に身をひそめながら"ここぞ"という機会を伺うべきだ。そしてなにより、このような戦法をとる目的のひとつとして、自分と企業のミスマッチを避けるという側面も大きい。入社は人生において点のイベントに過ぎず、決して線ではない。大切なのはいいカネをもらい続けること、そして自己実現し続けることだ。会社が嫌なら辞めればいいのは当然の権利だが、辞めずにすむ選択の準備が学生時代にできるのであれば、それに越したことはない。

 

 


いかがだっただろうか。このブログも、最近バズった他のエントリのように「かく言う私はGoogleに転職しました」で締められたら最高なんだけどそんなことはない。今はまだ群れの中で息を潜めているところだ。