第一子が爆誕した件
6月1日に娘が産まれた。
と思ったら、ほんの一瞬で1ヶ月が経った。
赤ちゃんを「新生児」と呼べるのは生後4週までで、毎日をアワアワ慌ただしく過ごしていたらもう新生児期が終了してしまった。何事もお試し期間は短い。これからは乳児とのこと。
とはいえバタバタ過ごしているなりにも少しずつこの生活に慣れてきたので、ここまでのジェットコースターのような、あるいは巨大迷宮のような日々を振り返ってみる。
じっくり振り返った結果、かなり長々と書いてしまったので、ムダでヒマなWeb会議に参加しているときなど手持無沙汰な瞬間にこの記事を思い出して読んでもらえたら幸いである。
目次
妊娠期間
covid-19の影響
在宅勤務と育児休暇
娘との生活
1. 妊娠期間
妻の妊娠が判明してから、2人の最初にして最大の山場は11月だった。私は人生で初めて救急車に乗った。
妻が「やばいやばい、苦しい、死ぬ」とただならぬ剣幕で私を起こしてきたのは深夜の二時半。妊娠初期で免疫機能がガタガタになっていたせいか、身体に激痛を感じていた。
詳しい病状については割愛するとして、これまでの人生で119番通報する機会がなかったため、なによりコール後の勝手が分からなくてひどく焦った。
特に「救急隊員って意外と家に居座るんだな」という驚きがあった。通報後爆速でやってきた割には、どこか余裕のある表情で妻の様子を伺っている。
「さあ!行こうか!」とロストマンさながら玄関へ促すも、いつまでもいつまでもリビングで問診みたいなことをしている。えっこれ、粗茶でも出した方がいいすか?
問診の結果、まあ大事には至らなさそうだということがなんとなく分かったものの、痛みは続くので、そのまま夫婦で救急車に乗り、病院へ向かった。
初めて乗る救急車の中には見たこともないアイテムが所狭しと並んでおり、もし妻(看護師)が元気だったら「あれなに?」「これなに?」と聞けるのだが、妻と言えばいまはめちゃくちゃそれどころじゃない刻苦の表情を浮かべているので、こちらとしても神妙な顔で黙っている他なかった。
結局、点滴を打って、明朝の日の出とともに帰宅した。慢性的な苦痛はその後も続き、そしてゆっくりと消えていったようだった。
一時はどうなることかと思ったが、結果的に、母子ともに後遺症無く済んで本当によかった。
もうひとつの変化としては、19年8月に私の部署異動があった。
これまでの部署では、関西方面にて出張ベースで打合せする機会が非常に多く、月一で中国にも通っていた。
特に一度中国へ行くと、中身の割に長々と4泊程度は拘束され、月曜の早朝に家を出て金曜の深夜に帰ってくることも多かった。
仕事自体は楽しいし、これを貴重な人生経験として考えれば全然悪くない出張だけど、身重の妻に1週間の留守番をさせずに済んだのは、偶然の部署異動のおかげだった。
新しい部署では都心に本社を構える材料メーカー相手の仕事がメインになったので、中国どころか泊りがけの出張もほぼ無し。
これによって、なんと、毎日帰宅することができるようになり、不在による不安を多少は減らせたんじゃないかと思う。私たちはいることよりいないことが原因で喧嘩する方が多かったから、これは良い変化だっだ。
少し経って妻は夜勤をやめた。これにて同棲開始から2年半、入籍から1年経ち、ようやくはじめて毎日一緒に暮らす日々が始まった。
一緒に過ごすということは、当然だけどこれまで以上に家で飯を食うので、実家にあるようなドデカ冷蔵庫も買った。以後2人は安心してモリモリ食っている。
2. covid-19の影響
「いつツイッターで妊娠報告するのか?」というテーマは、二人にとって意外と重大だった。2人ともツイッター村に住んでいるようなものなので、村民への報連相は欠かせない。
妻は「産まれました!」と産後にネタバレするのが理想とのことだったので、それに従った。
ごく一部の友人にだけこっそり伝え、あとは出産当日まで誰にも何も言わないようにしようと決めた。
この無謀な企みが完走できてしまったのは、covid-19の影響が多少なりともあったように思う。あのウイルスを恨みこそすれ、感謝することなど微塵も無いのだけど、ことこの秘密に関してはこんな世の中であるがゆえに隠し通せたようなものだ。
平時であれば毎月のようにフォロワーを自宅に招待してホームパーティ気分を楽しんでいたけど、ダイヤモンドプリンセス号の来航以来まったくそんな雰囲気ではなくなってしまった。
私達は、出産までのラスト3か月間をほとんど人と会うことなく過ごした。「屋外ならよくね?」と、こっそり4月に私の誕生日BBQ会を企画してくれていたものの、日々悪化する情勢のなか、結局は見送るしかなかった。
記憶というのは、時にとても杜撰だ。2月に何を考えていたのか、3月にコロナウイルスをどう捉えていたのか、私はよく思い出せない。
周囲より警戒していたような気がするし、逆に対岸の火事のように捉えていた気もする。どうしても今現在の認識に引っ張られてしまう。
結局、我が国はイタリアやアメリカのようにはならなかったが、一方かれらと同等以上にひどい事態になった国もある。すべては結果論である。よって純粋な記憶も"結果論"のバイアスに侵される。よく言えば価値観のアップデート、悪く言えば「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」とも。
過去を正しく認識していないと正しく反省することができないので、そういう思いも込めてあえて現状を書き記すと、6月末時点の東京では再び少しずつ感染者がゆるやかに増加しているが、行政の判断は「第二波ではない」だそうだ。
3月時点と検査対象の母集団が異なるのであれば、発表の通りだと思うけれど、目先の都知事選挙を見据えた中での大本営発表はおいそれと信じられない。
ただまあ、こればかりはやはり、未来の自分に"結果論"で判断してもらうほかなく、これからもなるべく感染リスクを抑えた暮らしを心がけるしかない。
話は反れたが、ともかくこのリスクを抑えるため、出産を控えた夫婦においても、夫の病院への出入りや立ち合い出産は固く禁止された。
かくなる上は病院の外からドローンを飛ばして窓から侵入し、動画の生中継によってリモートで出産に立ち会う方法や、Amazonで購入したマネキンに夫の服を着せて分娩室に持ち込む方法などが、同じく妊婦の妻を持つ旦那同士で積極的に議論されたが、結局はおとなしく病院の指示に従うことにした。
出産という、一番大変な時に妻のそばにいてあげられなかったのが悔やまれるけれど、こればかりは本当に仕方なかった。
3. 勤務と育児休暇
3月中旬、ウイルスの感染拡大を受け、勤務先でも在宅勤務が始まった。
その1か月後には妻の産休も開始したので、ついに24時間一緒にいる生活が始まった。
家の中で仕事をするのは当初ひどくこっ恥ずかしかったけれど、そんなことを言っている余裕もなく仕事を回さねばならないので、やむを得ず頑張った。
「営業職はアクターでなければならない」と先輩から教わって以来、いつの間にか「営業中の自分」という役回りが板についてきたけれども、それは好きな人に率先して見せたい一面では決してないので、こういう葛藤が付きまとった。
とはいえ、感染リスクと天秤にかければ背に腹は代えられないので、3月以降は本気で家に引きこもって仕事をした。
出産後、引きこもりの延長で育児休暇も取得した。今まさに育児休暇中だ。この文章も無給の状態で書いている。さぞ無給らしい軽やかな文章だと思いませんか?私は思わないが…
育児休暇そのものは、今年1月時点で相談した。まだcovid-19の被害がこの国にやってくる前の段階だったが、快諾された。小さい会社ゆえ、男性が取得するのは初めてらしい。
相談相手の上長は、還暦を過ぎたTHE昭和な営業部長なのだけど、彼が恐ろしいくらい物分かりがよくて、私は肩透かしを食らった。
もし断られたら総務に直談判(「就活生に対して『当社は男性も育休を取っている』と言えたら会社にもメリットありませんか?」みたいな話)をするつもりだったが、杞憂に終わった。この点については本当に感謝しかない。復帰したら一生懸命(当社比)働こうと思ってる。
私の育児休暇の期間は2ヶ月弱と、女性に比べたら短いので、仕事をまるっきり全て同僚に引き継くことはしなかった。特に社外に対しては、親しい相手にしか伝えてない。大手メーカーの営業達はみなまだ在宅勤務しているので、家にいようとオンラインで打合せが済んでしまう。これ本当に便利。
日によっては在宅勤務とほとんど変わらない多忙な時もあるけれど、ごく稀なので、妻の協力によってまだ両立できている。
まあ無給なので、本当は何もしなくたっていいのだけれど、それはつまらない人の思考だなあと思うので無理のない範囲で参加している。
肝心の家庭内の仕事としては、家事全般と買い物、それと夜間帯のミルクのワンポイント登板をやっている。
なるべく妻にはたくさん寝てもらいたいから深夜のミルク当番を買ってでてるのだけど、産後の母にはアドレナリンみたいな物質が出ているらしく、そんなに寝なくても済むらしい。本当か?
一方俺はといえば当然ホルモンバランスなど産前から何一つ変わっていないので、これまで通り眠たいし、ぐっすりたくさん寝てしまうし、一度寝ると朝まで起きない。娘が泣いても起きないし、地震が来ても起きない。なんだか申し訳なくなるけど、起きないのだから仕方ない。その分起きてるときに頑張ろうと思う。
弊社は古き良き(?)日本企業なので余程の事がない限りクビにはならないけど、こと家においては油断すると「きさん(北九州の方言で貴様のこと)は家にいなくていいから早く会社行って稼いでこい」という内容の育休自主解消宣告を受けそうなので、家庭の平和のみならず己の衣食住の確保のためにも尽力するのであった。
4. 娘との生活
さて、こうして妻と娘と猫と暮らす生活がスタートした。
赤ちゃんはめんこい。ちゃんと調べた事はないけど、"めんこい"というのは東北の方言だと思っている。個人的なイメージとしては、縁側で日光浴しているおばあちゃんが膝に座ってる孫に向かって言う「かわいい」が「めんこい」だ。
容姿とか表情にとどまらない、存在そのものを褒める形容詞だと思う。赤ちゃんはめんこい。
娘を抱いていると、まずその小さな生命を両腕に預かっていることの重圧を感じる。そしてその責任があるからこその愛おしさがある。親になるってこういうことなんだな。感無量だな。早く『わたしパパとけっこんする!』って言われてえな。できれば『パパ、くさい!』って言われる前にクリアしておきたいな。今から一生懸命に脇や足を洗っている。
ただ正直、いくら育休をとっているとはいえ、夫が主体的に新生児と取れるコミュニケーションはほとんど無かった。今できることといえば、ミルクをあげる、げっぷを出させる、寝かしつけるなど、生存にまつわる本質的な事だけ。まあみんなそうなのかもしれないが…
特にこの6月は妻のサポートに徹することしか出来なかったけれど、大きくなるにつれて私にも出来ることが増えるだろうから、それを信じてサボらずになるべく関与し続けていきたい。がんばるぞ。
最後に、家族や友達が娘に可愛いプレゼントを選んで送ってくれたのが本当に嬉しかった。なかなかゆっくり買い物に出かけることができないので、皆の気立てとセンスにうちの家族たちは生かされてます。どうもありがとう。
そして、ただ思ってる事をむやみやたらに書き連ねただけの駄文をここまで読んでくれて本当にありがとう。友達から「喋りたい欲の塊」と評された私のこの喋りたさを活字に乗せてお届けするシリーズ、また喋りたいことが溜まったらダラダラと書いてみるのでその時はひとつどうぞ宜しく。