SHOMONA

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忘れられない年

年の瀬といえば普通はもっとその年を名残惜しく感じているような気がするけど、今年ばかりは大げさに振り返ったりすることなく、平穏無事であることを最善の妥協点として暮らしている、ような気がしている。

 


自分といえば、今年は色々な事を考えた。
自分自身で納得して、主体的にこの生活をこなしていくために…

 


常に頭に合ったのは、6月に生まれた娘の子育てとコロナ対策の両立。基本的に、この二つに対して求められる行動は一緒だ。すなわちステイホーム。夜に飲み歩いたり休日に遊びに行ったりしないことが、たとえコロナ禍でなくたって夫に求められていることだし、それは一応理解している。

 


理解しているからこそ、今のこの理想に近い暮らしを、果たして私は平時でも実践できただろうか?と内省的に考えてしまう。もし妻の出産が1年前だったとしても、私は、家庭を無事に運営できていただろうか?まさかコロナに救われていないだろうか?飲み会も残業も中国出張もゴルフ接待もないこの世界を、心のどこかで有り難がっていないだろうか?有り難がってしまうことを、不謹慎ではないと言い切れるだろうか?疑念はいつまでも払拭されない。そういったことをずっと考えている年だった。

 


一方で、コロナ禍は来年以降もしばらく続くだろうし、育児こそ今後ずっと続くので、この生活はそう終わらないはずだ。だからきっと今年考えた事や感じた事の延長線上に2021年があり、2022年がある。もしかしたら、何もかもが真新しくユニークなのは今年だけかもしれない。来年以降はいまの思考や感情をベースに行動し、やがてそれが日常となっていく。日常となった果てには、もはや考えることすらしなくなるかもしれない。というかそういう思考停止状態こそが日常だろう。

 


多くの人命と、もっと多くの経済的な犠牲の上で、かりそめの日常が「ニューノーマル」と呼ばれていく。物理面・精神面でウチとソトを二分化してしまうニューノーマル世界において、家庭内がハッピーである限り、外界の色々な出来事と記憶は都合よく忘れ去られるだろうけど、果たして本当にそれで良いのだろうか?煉獄さんや煉獄さんの母上殿は許すだろうか?

 


様々な記憶…もはや遥か遠い昔の事件となってしまったダイヤモンドプリンセス号のころ、GWの自粛期間、2ヶ月間の育休期間、第二波・第三波と呼ばれる感染拡大シーン…それぞれの環境の中で感じた事や悩んだ事を、しばらく忘れないようにしたい。娘の成長という幸福な記憶と共に、常にそれと背中合わせだった2020年の暗い部分にも目を背けず、できる限り覚えておきたい。さいわいにも今年は忘年会をしていないから、きっと忘れずにいられるはずだ。