SHOMONA

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大人と子供と俺と

「世代間闘争」という言葉を知ったのは何歳くらいだったろうか。自分の心情を的確に表現した言葉だなあと感じたのは覚えてる。

 

女子中学生のアイデンティティが「ウチらの代」に帰属しているようなもので、僕は昔から自分と自分の世代のことが大好きだったし、上の世代(子供だった自分から見た大人たち)のことは苦手だった。

 

小中学生の頃、大抵の大人(先生)が敵だった。先生の頭は硬く、偏屈で、お節介で、ダサかった。大人の理屈は破綻してると思っていた。自分が正しく、大人が間違ってると思ってた。こっち側が正義だった。正義の反対は悪だった。

 

歳をとるにつれ、そうでもない大人達が周囲に増えてきたのは印象的だった。理不尽な出来事に直面した時に、こちら側の心情を汲んでくれる大人の出現は新鮮だった。大人にも心あんじゃんと思った。けれどもダメな大人は相変わらずダメだった。そして地元を出た。

 

いくら成人したとはいえ、大学生の間はまだ子供だったと思う。相変わらず大人のことを味方だと思えなかったし、自分が大人側の人間に寝返ったつもりも毛頭無かった。私怨だけど、就活の時なんか特にそう思った。

 

社会に出て数年経った今、僕は今どちらの味方なのか。身も心も完全に大人なのだけど、それを受け入れきれない思いもある。望まない形でライバルチームに完全移籍してしまった。子供チームから後ろ指を指されてしまう。

 

Wikipediaピーターパンシンドロームについて調べてみると、命名した心理学者の言葉が本当に身に染みる。

 

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「ピーターパン」は人間的に未熟でナルシズムに走る傾向を持っており、『自己中心的』・『無責任』・『反抗的』・『依存的』・『怒り易い』・『ずる賢い』というまさに子供同等の水準に意識が停滞してしまう大人を指す。ゆえにその人物の価値観は「大人」の見識が支配する世間一般の常識や法律を蔑ろにしてしまうこともあり、社会生活への適応は困難になり易く必然的に孤立してしまうことが多い。

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ピーターパンとして必然的に孤立してしまった僕は、いまでも相変わらず世代間闘争の真っ只中にいる。大人にはなりたくないよ、なりたくないよ大人にはという強い思いが胸を支配する。けれども「あんな奴みたいにはなりたくねえな」という感情が、どうして同族嫌悪じゃないと言い切れるだろうか?「あんな奴」が目に付くのは、自分の中にも「あんな奴」要素があるからで、少しずつ僕も「あんな奴」になっていくのではないだろうか?実はもう既に「あんな奴」になっていて、気付いていないだけではないだろうか?なぜなら僕はもうとっくに大人なのだから…

 

大好きな自分が大嫌いな大人に少しずつ変わっていく様子を24時間365日観察しなければならないこの拷問は一般に「人生」と呼ばれていて、今日も人生は遅効性の毒のように進行していく。毒は体の隅々に行き渡り、やがて死ぬ。とはいえ、なるべく長く生きねばならない。大好きな自分には、できる限り長生きして欲しいからだ。

 

かくして、当初「先生と生徒」の争いだった「世代間闘争」は、いつの間にかその争いを体内に内包することとなった。これは自分自身との戦いだ。老いや衰えに対する抵抗だ。外野の大人達の事はどうでもよくて、自分自身がどうあるべきか、どうなりたいかが肝心だ。僕のようにきちんと大人になれなかった人達が戦うべき相手は、自分自身の中にいる。

 

さて、どんなピーターパンになろうか。